2020年3月18日
不安を煽るような情報が世の中に溢れております。
そうした不安や心配というのは着実に、
「疲労」として脳へ蓄積されてゆく。
脳の疲労というのは遅れてやってくる。
目に見えないから軽視されがちで、
生活の質に直接打撃を与えます。
僕には、インフラを整えることも、感染者を診ることも、
トイレットペーパーを大量生産することもできないが、
だからこそ「今自分に何ができるだろうか?」
と改めて思う日々だ。
「人の心の中に不必要な毒素が蔓延していくのを、なんとか抑制できないだろうか?」
「このコラムを読んでくれる方、スタジオに来てくれる方が、
怒りや欲や誤った情報に踊らされず、最低限のダンスだとしても、
自分の日常のステップを踊り続けるために何ができるだろうか?」
思えば僕は20代終盤まで随分と怒り、欲、誤った情報に
踊らされてきたと自負している。(笑)
その混沌から抜け出すきっかけになったのが、
トレーニングや自分と向き合うことだった。
そして、昔と今の自分を比べるとだいぶ
「ユーモラスな人間」になったと感じています。
このユーモアという事象と運動の関連性を言葉にする、
というチャレンジを今日はしてみたい。
ちょうど前回、ユーモアには2種類あるんではないだろうか
なんてことを書きました。もしもこの2種類のユーモアを、
外から内、そして内から外へ、グルグル循環させながら暮らすことができたら、
どれだけ精神の風通しはよくなり、肉体は軽くなり、生き易くなるだろうか。
「ユーモラスな人」って、それを無意識で実践していると思うのです。
嗚呼、ユーモアって年齢に限らず磨くことができるのだろうか?
「ユーモア」=「ギャグセンス」というイメージを一度払拭してください。
ユーモアというのはもう少し大きな概念として捉えます。
例えば、「雨の日の新しい楽しみ方を考える」これも一種のユーモアです。
だからユーモアは年齢に限らず磨くことができます。
どうしたらできるだろう?
僕の結論は「トレーニングを続けること」です。
ヨガ、筋トレ、ランニング、なんでもいいと思います。
自分のテンションが上がるワークアウトを継続し、
「少し難しい」にチャレンジし続けることです。
「少し難しい」これがポイントです。
トレーニングを継続していくと、必ず壁にぶつかります。
その壁は理想と現実の衝突を生み、葛藤を生みます。
時にはモヤモヤや苛立ちを生みます。
できれば、チャレンジの中で感じたことやモヤモヤしたことなどを
ノートや日記に書いて、言語化していきます。
そしてできれば、それを同じ志の人とシェアしていきます。
歴史的な背景に目を向けてみると、
例えばヨガもカポエイラもトレーニングも、
その発祥において様々な「逆境」をバックグランドとしています。
インドの修行僧が、飢餓と貧困の中での哲学としてヨーガに取り組んだとか。
ブラジルの奴隷兵が、弾圧に対する自由への闘争としてカポエイラをしたとか。
アメリカの西海岸では、体の小さな青年が自らのコンプレックスに抗うために
ウェイトトレーニングを開始したとか。規模や領域は違えど、
逆境に立ち向かう「運動」というのは全て、ある種の「ユーモア」だと、僕は思います。
「少し難しい」にチャレンジし続けることが、
自分を知るきっかけになります。
自分を知ることが、感覚、言語、表現の手助けをしてくれます。
もしそれを誰かとシェアすることができればお互いに
フィードバックをすることができます。
フィードバックをすることが、想像力、思いやり、コミュニケーション
を磨く刺激になります。
現実と向き合うこと。コンプレックスと向き合うこと。
これらは常に「むずかしい」ことです。
しかし日常において「ユーモラスに暮らす」
という観点が、自己実現と今の時代に必要なんじゃないかなと思っています。
全てのチャレンジを、僕は全力でサポートしたいと心から思っています。
ナヴィーオ代表 山崎
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